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西新宿 彩旬亭

2024.11.30ブログ

法悦 11月

2024年11月


 法 悦11月号 890号




自己がわからない人は


他人を責める


自己がわかった人は


他人を痛む

安田理深



青色青光

「自己がわからない」というのは、自分の心の中にある弱さや迷いにも
気づかない、ということでしょう。
この状態を仏教では無明と捉えていますが、私たちは、何か不都合な
ことや意に沿わないことがあったとき、他人のせいにして攻めたり、
怒ったりしがちです。
それは無明の身であるわが身には目を向けず、問題の原因を常に外に
求めようとするからでしょう。
一方で、「自己がわかった人」とは、わが身を深く理解し、他人を
責めるより、その人の苦しみや悲しみに寄り添う、まさに慈悲、
慈しみ悲しむ心を持つ覚者に他なりません。
仏教で説く縁起の道理は、これ在るが故に彼あり、彼在るが故にこれ
ありと、すべての事柄や存在が相依相対、互いに分かち難く、関係存在
として成り立っていると教えます。
つまり、あれさえなければ、あいつさえいなければと思うことも確かに
ありますが、他の事柄や他者を否定するとき、そこには自己も存在しえない
のです。
自らの姿は鏡に映さなければ見えません。お念仏はわが身を問う営み、
私たちの先輩方はナムアミダブツナムアミダブツと、お念仏にわが身を
聞き開き、日々歩んでいかれたのです。

住職日々随想
今年の9月号の寺報に「情報の訂正は可能だが、感情の修正は難しい。」
という、評論家荻上チキ氏の言葉を紹介させていただきましたが、一度受
け入れてしまった情報によって引き起こされた感情は、虚偽であると
わかっても、容易に改めることが出来ないという性向が誰にもあります。
情報化の極度に進んだ昨今、私たちは日々膨大な情報にさらされており、
中には曖昧なものや虚偽情報など、その見極めを誤ると、場合によっては、
とんでもない事態に発展するものも少なくありません。
最近ではトランプ前アメリカ大統領の、ハイチ移民が住民のペットを
食べているというトンデモ発言から、関東大震災時の朝鮮人大量虐殺の
発端となった、様々な流言飛語まで、枚挙に暇がありません。
情報の真偽を見極める眼を、どのようにして確かなものにしていくのか、
感情の修正が困難である以上、情報伝達のスピードや拡散範囲の広がりを
考えると、虚偽情報は一刻も早く訂正しなければなりません。
よく嘘も方便とは申しますが、仏教で言うところの、嘘と方便は全くの別物。
嘘は他をだまして自らを利する行い、それに対して方便は様々な手立てを
もって、他を利するはたらき。特に仏の衆生を導き、悟りを得しむる為に
なさるおはたらきを善巧方便(ぜんぎょうほうべん)と申します。
親鸞聖人は教行信証の信の巻、真の仏弟子釈に於いて「真」の言は「偽」
に対し、「仮」に対するなり、と述べておられますが、「真」と「偽」
を見定めることは、時に困難を伴いますが、やがて明らかになることも
あります。
では、「仮」とは何でしょうか?
親鸞聖人は「仮」は、「真」に出会うためのもの、わが身を明らかにして
くださるおはたらき、善巧方便でなければならない事をお示し下さいます。
が、「仮」に固執してしまうと「真」を見失ってしまう、ともご注意して
おられます。
唯円様は歎異抄の第十八条に、聖人が常々「煩悩具足の凡夫、家宅無常の
世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあること
なきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と仰せであったと記して
おられます。
まさにこの娑婆世界には、絶対の善もなければ絶対の悪もない、常に
業縁によって左右されている。
ただただ仏智の不可思議なることをいただき、仏恩を報ずる念仏だけが、
すえとおった真であると、ご教示くださるのです。

真宗入門「お鈴(りん)」

仏様の前には鈴(りん)が置いてあります。「かね」とも呼ばれ、寺院で
用いられる大型のものは「きん」と呼ばれています。
いつ打つの?、打ち方の作法はどうするの?、と思っておられる事と
思いますが、お勤めの始まりや区切り、終わりなど、勤行時の決められた
合図として、撥(ばち)を使って打ちます。
お内仏のお勤めの手順として、お灯明を点じ、線香を焚き、ご本尊を
仰ぎ合掌して、お念仏を称えます。
そして合掌を解き、『正信偈』の場合は、鈴を一打目は音を小さく、
次に二打目は少し大き目に打ち、その後、「帰命無量寿如来」と調声をします。
鈴はお勤めを始める合図、納めの合図となります。ご家族でお勤めをする
ときなどは、正面に座った人(調声人と言います。)の鈴の一打目で
合掌を解き、お勤めを始めます。
勤行本の文字の右側の●印が、鈴を打つ箇所を表しています。
複数の人が一緒にお勤めをする場合、合わせるために、鈴は重要な役割を
はたします。
法語の味わい

ー法語カレンダー11月号よりー
ただ南無阿弥陀仏
親鸞様のご生涯

「ただ念仏して、弥陀にたすけまいらすべし。」と、親鸞聖人は常々
仰っておられた、と歎異抄に示されています。
聖人がお念仏の本当の意味に出遇われたのは、二十九歳の時の、
法然上人との出遇いに於いてです。
それまで、自らの努力で仏のさとりに到ることを、命がけで学ばれて
いたのですが、学べば学ぶほど、仏のさとりとはほど遠い、自らの姿が
明らかになりました。ここに意を決して法然聖人の元に行かれたのです。
そこで、阿弥陀如来は久遠劫来「南無阿弥陀仏」と、声の仏さまとなって、
この身と常に共にいてくださり、どんなことがあっても、我が国浄土へ
迎え取り、仏となさしめん、と誓われた仏さまであったと信知されました。
ここに聖人はこの誓いのまことに、おまかせする人生を歩まれる事と
なったのです。
御伝鈔に、臨終の一念にいたるまで、「ついに念仏の息たえましまし
おわんぬ」と表されたように、ただ南無阿弥陀仏のご生涯でした。

ー坊守便りー
報恩講をお勤めします
浄土真宗を開かれた宗祖親鸞聖人は、1262年の十一月二十八日、
そのご生涯を閉じられました。
私たち真宗門徒が、お念仏の教えに生きられた聖人をはじめ、数多くの
先達に思いを馳せつつ、一年に一度、最も大切な法要として勤めるのが
報恩講です。
全国各地の真宗寺院でお勤めされるのはもちろん、在家報恩講
(お取り越し)として、ご門徒のお宅で、僧侶をお招きして、家族親戚や
ご近所の有縁の人びとも共にお勤めをし、ご法話を聴聞するという習わしが、
今も北陸などでは熱心におこなわれているそうです。
大阪でも私が安泉寺に嫁に来た頃は、何件か自宅でお勤めになる方が
ありました。ご法話を喜ばれた、まさに「妙好人」のお姿が目に浮かびます。
十月一日に、同朋会の役員をお勤め頂いた竹中公彦さんがお亡くなりに
なりました。
先代のお父様のころから、お寺のお役をして頂き、阿弥陀様の前で手を
合あわされる、まさに法義相続を大切にされた、こころやさしい方でした。
同朋会員の皆様と、本堂でお見送りさせて頂きました。ありがたい
ご縁でした。南無阿弥陀仏

十一月の行事
3 日(日)午後1時~ おみがき清掃ご奉仕

7 日(木)午前10時半~ ピラティス

12日(火)午後2時~報恩講
5時~御伝鈔拝読
ご講師 泉大津 南冥寺住職
戸次公正師

21日(木)午前10時半~ ピラティス

十二月の行事
5 日(木)午前10時半~ ピラティス
8 日(日) 日帰りバスツアー
神戸「人と防災センター」モダン寺 須磨寺見学「一弦琴の演奏」

15日(日) 午後3時~
おみがき清掃ご奉仕

31日(火)午後 11時半~
歳暮勤行・除夜の鐘
真宗大谷派 鶴栖山 安泉寺

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